1期生 安島 太佳由氏 講演会・ 「若い世代に語り継ぐ戦争の記憶」を聞いて思ったこと
平成22年10月29日の金曜日に、交野高校の全校生に向けて、同窓会主催の講演会が行われた。同窓会では今後、社会の第一線で活躍している本校卒業生を招いて、年に1回の割合で講演会を行うことを予定している。
その第1回の演者は、戦跡写真家の安島太佳由(たかよし)氏。交野高校の1期生である。安島は、私の高校3年生の時の同級生であり、名門交野高校野球部の初代キャッチャーである。
高3の安島には、こんなエピソードがある。
私たちの3年9組には、学校の教員・生徒によって作られた正式の卒業アルバムの他に、もう一つの卒業アルバムがある。「乱乱乱」と名付けられた、9組生のためだけの本格的な装丁の卒業アルバムだ。このアルバムを作るために、安島は、高3の1年間、休み時間や放課後のみならず、授業中や体育の時間中にも学校にカメラを持ち込み写真を撮り続けた。「栴檀(せんだん)は双葉より芳し」。今日のような、世界を股にかける写真家になる安島の交野高校時代の彼らしいエピソードである。
安島は、まず後輩の高校生たちに自分の高校での思い出を語った。
そして、自分が戦跡カメラマンとして、今日のような仕事をするきっかけを語った。戦争を知らぬ自分が、同じく戦争を知らぬ若い世代に戦争を語ることについて語った。
しかし、安島は、戦争を語る意味を安易な「主張」として語ろうとはしない。
戦後限りなく語られた「手垢」のついた、ステロタイプのイデオロギーで語ろうとはしない。彼は、ただ一つのことを伝えようとしていた。
それは、戦争があったことを知ること、そこで失われた人々の思いを自分のことに置き換えて感じることだと言う。
安島は、自分がかつて戦場であった土地を訪れて、自ら撮った写真と、当時の様子を示す写真などを交えながら講演を進めた。
安島は、戦争末期のある日、交野の上空で行われた空中戦のことを語り始めた。
身近な交野であった戦いから生徒たちに戦争のことを語り始めた。
昭和20年7月9日、終戦間際となったころ、アメリカの最新鋭のP51戦闘機が大阪地区に来襲してきた。これは、空襲を行うB29の編隊の護衛についた約60機であった。
これに対して日本側は伊丹飛行場から飛行第56戦隊の全力17機が離陸して邀撃(ようげき)を行った。
この戦闘で、日本の3機が撃墜された。
うち1機が交野上空で撃墜された。それが23歳の中村少尉の座乗する陸軍三式戦闘機「飛燕」だった。
彼は、パラシュートで脱出したが、米軍機の翼によってその紐を切断されて墜死させられた。殺そうとする人間を数メートルの間近に確認しつつ、接触の感覚を持って紐を切る。安島は、相手の命綱を翼で切るという方法で人の命を奪う戦闘が、まさにこの交野であったことを静かに語った。
安島の話を聞きながら、私は想った。
伊丹から飛び立った戦闘機の搭乗員中島は、何を思っていたのだろう。
おそらく連日の空襲で、多くの女や子どもが焼かれ、街が破壊されていく中、彼は、自分の命をかけてもの思いで、そして祖国を守る思いで飛び立ったのだろう。
旧式の「飛燕」では、高高度を飛ぶB29はもちろん、最新鋭の性能を誇る数多くのP51に敵うはずもない。
しかし、彼は飛び立ち、空中戦を挑み、撃墜され戦死した。
私は、おそらくそのときの空中戦であろう様子を目撃した年寄りの話を子どもの頃に聞いたことがある。
終戦近くのある日、アメリカ軍の戦闘機が、我が物顔で交野・枚方の上空を飛んでいたとき、3機の日の丸を付けた日本軍機が現れ上空で空中戦となったそうだ。
そのとき下から見上げていた人たちは「あー、味方の飛行機だ」と敵をやっつけてくれるものだと思い一瞬喜んだ。
しかし、喜んだのもつかの間、日本軍機は皆、撃墜され、「びしっ、びしっ、びしっ」と地上に次々に突き刺さるように激突していったそうだ。
それを聞いた幼い頃の私は、撃墜された飛行機は「ひらひら」と空を舞いながら落ちるものだと思っていた。その年寄りが語る「びしっ、びしっ、びしっ」という擬音は、空中戦の恐ろしさを実にリアルに感じさせたものだった。どうやら、その戦いが、安島の語る空中戦のことのようだ。
安島の写真撮影の活動範囲は、広く太平洋一円に広がる。
安島は、激戦の地に立ち、そこでうち捨てられたままになっている数多くの遺骨を見た。
彼のカメラマンとしての目には、南海の地に倒れた名もなき兵士へのその兵士が抱いたであろう思いへの、せつない共感がある。遙か彼方のジャングルの中で、息絶えた兵士への思いがある。
特定のイデオロギーからではなく、またその場に居合わせずにすんだ者の評論家的な視点からでもなく、もしその場に自らが居合わせたならば、もしこれが自分だったらという、当事者意識としての戦争の意識がある。
安島は、講演後、私に戦争の評価についてこのように語った。
戦場では、殺される者、殺す者がいる。両者の戦争が同じはずがない。
例えば、被害者の数にしても、ある立場では0になり、ある立場では数十万に膨れる。
しかし、同じ時期の同じ戦場で行われた戦いでも、部隊によって、上官によって、その戦争の有様は異なる。戦争を語るとき、一つの部隊がこうだったから、一つの戦闘がこうだったからといってそれを他のすべてに及ぼすのは、間違いだと安島は言う。
そういう議論には関わらないと安島は言う。
だから、安島は、戦争の一局面であったエピソードだけを語り、その評価、兵士たちの思いについては、聞く者たちの想像と共感に任せるのだ。
安島の講演は、特攻隊(特別攻撃隊)の話に移った。
特攻隊とは、太平洋戦争の末期に日本軍が編成した生還を期さない体当り攻撃部隊のことである。航空機などに爆弾を積み込み、搭乗員もろとも敵艦に体当りする部隊のことを言う。主に17歳から23歳までの数千人の若者が、特攻隊員となり南の海に散華した。
安島は、様々な若い兵士たちの死を、自ら撮影した写真、残された当時の写真を通して静かに語る。
「笑って突っ込みます」と書いた人間魚雷「回天」の搭乗兵の遺書。
「明日は自由主義者が一人この世から去っていきます」と書いたインテリ学徒航空兵の遺書などが紹介される。
自らの逃れられない死に何とか意味を与えようとし苦悩する若者の思いが、講演を聴く者の胸に迫る。
彼らは、自らの「特攻」という死を受容できたのであろうか。
私は、問う。彼らは逃れることのできない「死」をはたして受容できたのであろうか。
高名な精神科医のエリザベス・キューブラー・ロスは、一九二〇年代に死と死ぬことについてのプロセス、死の受容のプロセスと呼ばれている「キューブラー・ロスモデル」を提唱した。
死の間際にある者(主に死に至る病の人間を例に)の心の葛藤の軌跡についてである。
彼女はその著書『死ぬ瞬間』で次のように表している。
まず、「否認」の段階。自分が死ぬということは嘘ではないのかと疑う段階である。 次に、「怒り」の段階。なぜ自分が死ななければならないのかという怒りを周囲に向ける段階である。 そして、「取引」の段階。なんとか死なずにすむように取引をしようと試みる段階、つまり何かにすがろうという心理状態の段階である。そして、「抑うつ」、なにもできなくなる段階にすすみ、最後に「受容」、つまり最終的に自分が死に行くことを受け入れる段階である。そのためには、死を受け入れる自らが納得できる「合理化」、つまり意味づけが必要になると言う。
戦争末期に、「戦艦大和」による沖縄特攻がなされた。その有様を描いた、「戦艦大和ノ最期」(吉田満著)に書かれた有名な臼淵大尉の言葉を私は思い出した。
臼淵大尉は、勝ち目の無い、そして生きて帰る可能性もない沖縄特攻作戦に出撃する途中、死を意味する出撃に意味を見出せず乗組員達が激論を戦わせているときに、彼は次のような言葉でその議論を終わらせたと言われている。
「(日本ハ)敗レテ目覚メル。ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ワレルカ。今目覚メズシテイツ救ワレルカ。俺タチハソノ先導ニナルノダ。日本ノ新生ニサキガケテ散ル。マサニ本望ジャナイカ」と。
臼淵大尉はこのとき実に弱冠21歳。この激論の数時間のちに米軍の直撃弾を受け戦死した。
しかし、私は、「特攻隊員」は、けして全員が死を「受容」できたとは思わない。
皆、無念の思い、割り切れない感情、持って行き場のない悔しさ、これらを感じつつ死なざるを得なかったのだろう。
戦場で肌身離さず持っていた母の写真の裏に、「お母さん」の四文字を幾十も書き連ねた若き兵士の遺品の写真が紹介された。
出撃するわずか2時間前に、同じく出撃する隊員たちと一匹の子犬を抱く、17歳の少年飛行兵たちの写真が紹介された。
その写真を紹介する以上に、安島は多くは語らない。
しかし、私はそこに共感と同感を限りなく感じる。
死を受容できるはずもない、若き兵士の無念と切なさを感じる。
そして「それが自分ならば」という問いかけを繰り返ししている自分を知る。
これが、安島が自分の10冊にも及ぶ著書、そして講演を通じて伝えたかったメッセージであり、この講演会で後輩たちに語りたかったことではなかったかと、あらためて私は思うのである。
平成22年11月1日 記
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生徒達の講演会感想文(抜粋)
- 戦争を起こすのは、人間だから、自分の意識が大切だと思う」
- 「戦争は、あってはいけないと思う。大規模な殺人だと思う。」
- 「長かったけど、貴重な話、写真を見る事が出来てよかったです。OBが、偉大なカメラマンだということは、誇りです。」
- 「戦争で戦った人たちの目線で考えると、想像もできないくらいすごかった」
- 「65年前にもなる戦争のことを写真を通して、私たちに伝える事は、理解してもらうことも、大変だと思った。65年前の人々が、いてくれたから、今
- 平和な自分や、自分たちにつながる幸せな生活があると思った。」
- 「戦争を再びしてはいけないと、改めて強く思いました。いろんな知識を得て、次の世代に受け継いでいく事が、大事だと思いました。」
- 「戦争の恐ろしさが、写真を見て、凄く伝わって来ました。そのような恐ろしい戦争をつくっているのは、人間であって、一番恐ろしいのは人間だという言葉が、すごく重くて深いなと思いました。」
- 「昔の人の価値観と今の人の価値観の違いについて勉強になりました。」
- 「戦争の悲惨さを伝えていく仕事は、辛いこともたくさんあると思います。でも、一生懸命に伝えていてとても素晴らしいと思いました。」
- 「自分と近い年齢の人たちが特攻隊として命を落としていたという話を聞いて、今の時代に生まれてきてよかったと思いました。戦争がもう日本で起こる事がない事を願います。」
- 「戦争のおそろしさや、厳しさがとてもよくわかりました。戦争は、とても恐ろしく戦後も、むざんな感思い知らされました。平和な今、とても幸せな事だと思いました。」
- 「戦跡カメラマンは、メンタルが強い人だと思います。すごい勇気がいると思います。」
- 「戦争のことは、耳で聞くよりも、写真で見た方が、怖さ残酷さが、伝わってきました。背すじが、ぞっとしました。」
- 「戦争というものは、人間が起したものなのに、なんで防げなかったのだろうと思いました。一番、写真の中で印象に残っているのは、やっぱり人の骨と、お地蔵さんがランドセルを背負っている写真でした。やっぱり、こんな小さな子も命を落としているんだと胸が苦しくなりました。お母さんの気持ちを考えると苦しくてたまりません。」
- 「言葉では単純ですが、本当に命は重いと感じました。」
- 「一番印象に残ったのが、特攻隊の話でした。5000人もの人が、特攻隊でなくなっていて、ビックリしました。」
- 「骸骨の写真や、戦争前に両親に送った手紙などの映像を見せてもらって、戦争の悲惨さやすごさが伝わってきました。私たちがイメージしている戦争死は、じゅうの打ち合いだと思っていましたが、実は自殺者や栄養失調が多かったことを聞いて驚きました。」
- 「人骨の写真を見た時、ぞっとしました。南の島にはたくさんまだ残っていると聞いて驚きました。そのほかにも、私たちと同じくらいの年齢の人が、特攻隊でなくなっていったのを知り、悲しくなりました。」
- 「戦争」は自分と関係ないことだと思っていたけど、今 私たちが生活できるのは、色んな人が犠牲になって、その上になりたっているんだ と思った。そして 「自分には関係ない」とみんなが思っているから、今も戦争がなくならないのかな、と思った。先進国には食料が 有り余っているのに、どこかの国では餓えてる人がいる。 子の様なことは皆で考えないといけないことだと思った。」
- 「安島さんの話を聴いて、「昔」と思ってたいた戦争があまり昔でなくて、びっくりした。戦争は悲しみと憎しみしか生まない。 特攻隊や回天で死んでいった人たちの、死ぬ前のあの笑顔を見ると、心が痛くて仕方なかった。「戦争」というものは人々の理性を失わせるものだと改めて思った。
- 「一番おそろしいのは原爆などではなく 人間 だということがわかった。」
- 「毎年、こういう道徳みたいなことをやるけど、実際自分がなったわけじゃないので想像には限界があると思うから真剣に聞こうと思えない。」
- 「『お母さん、お母さん、お母さん・・・』と書かれた遺書の写真がとても印象的でした。あの遺書をどういう気持ちで書いたかを考えると心が痛みます。」
- 「戦争が終わってから65年も経っているのに、戦争の傷跡がはっきり残っていることに驚いた。
- 「戦争をしようとする人間がとてもおそろしいと思った。」
- 「話をきけてよかったと思います。けど時間帯が眠くて最初の方は起きてられませんでした。」
- 「同じ歳の人が特攻隊として自爆していくなんて、今まで知らなくて、戦争って怖いなーと思った。人が残していく文も深いなと思った。」