交野高校にて ~7年間の思い出~

理 科 和田 雅郎 [2009/4]

 

交野高校に転勤する前は長尾高校に勤めていました。長尾には15年間いました。12年目に教務部長になってしまいましたので、教務部長あけで14年、そのとき校長にいいました。「あと1年、仕事を片付けて引き継ぐために長尾に残るから、そのあと交野高校に行かせてくれ」と。今では長尾高校の裏は広大な住宅地になっていますが、転勤したときは全部が山で、自然にあふれており私の大好きな環境でした。交野高校も山のふもとにあり、とても環境がよいので、是非とも転勤したい学校だったのです。町なかの学校には絶対に行きたくありませんでした。最後の1年、校長に「交野」、「交野」といい続けたところ、本当に交野に転勤になり、大喜びしたのを覚えています。ところが転勤前の入試準備の頃から右腕がだる痛くなり、それがどんどんひどくなっていきました。入試が終わったころ、首も曲げられなくなり、とうとう医者に行きました。整形外科でレントゲンを撮ってもらうと、首の骨の椎間板の一部がすり減って神経を刺激する「頸部変形性脊椎症」と診断されました。その日から低周波をあて、首を引っ張るリハビリが始まりました。効果が出るまで1ヶ月以上かかると聞かされていました。交野高校に移ったのは治療から2週間ほどでしたので、授業が始まった頃は痛みとしびれがピークで、右手は上がらず、左手で右手の肘を持ち上げて黒板に字を書く、という授業をしていました。当然、汚く読みにくい字になったので、生徒たちから「読めない」といわれ、謝り続けていました。せっかく第一希望の転勤先になったというのに気分は最悪でした。気分が悪いと、いい授業ができるはずはなく、生徒も楽しくなかったと思うのですが、さすがに交野高校の生徒はちゃんと授業を受けてくれていました。長尾では、発症するまで時々体育館に行って、生徒にバドミントンの指導をしていましたが、だんだんできなくなり、一度だけ生徒にせがまれてラケットを握りましたが、ラケットを振る度に激痛が走り、早々に引き上げたものです。それ以来バドミントンを直接指導することはなくなりました。勿論、交野高校は男女ともレベルが高く、指導に関して私の出る幕はないのですが、頸椎症がバドミントンの指導をやめたきっかけになったのは事実です。5月の終わり頃に治療の効果が出てきて、6月には嘘のように痛みも痺れもなくなりました。そんなわけで交野高校に転勤した当初は惨憺たるものだったという印象が強く残っています。

転勤していきなり担任でしたので、何が何やら分からないまま、周りの先生のまねをして担任業務をしていきましたが、幸いなことに自主性のある生徒が多く、とてもいいクラスだったので、辛いことはありませんでした。それどころか学校のシステムがすぐに分かったので、すぐに担任をしてよかったと思っています。

交野では分掌は進路指導部オンリーでした。長尾までは教務が多く、進路は初めてだったので、学年進路の3年間は何をしていいか分からず大変な思いをしました。ほとんど自転車操業で気がつくと終わっていたという印象です。1年おいて何と進路部長に選ばれてしまいました。進路を4年経験しただけなのに部長とは。不安な日々が始まり、それでも3年間はあっという間でした。

バドミントンは付き添いだけの顧問でしたが、最後の2年、連続4回男子団体大阪ベスト4を勝ち取り、顧問としてありがたい思いをさせてもらいました。また、30期と32期の2回、男子ダブルスが近畿大会へ出場し、その付き添いとして神戸と奈良に行ったのもいい思い出として残っています。

部長を終え、教科の都合ですぐに36期の担任団に入って、修学旅行の行く先・業者選定等の仕事を少し手伝った頃、転勤が確定しました。振り返ってみると、担任の3年間も、進路部長の3年間も本当にあっという間で、交野高校での生活は一瞬で終わったような気がします。交野高校へ出張に行っていた、という印象です。意義深く、勉強になり、そしてとても楽しかった7年間でした。

(2009.3 大阪府立野崎高校に転勤)